【或る「小倉日記」伝】 松本清張を、読んだ感想!

【或る「小倉日記」伝】は、
第28回芥川賞受賞作だが、昭和27年9月の「三田文学」に発表された。
この小説が最初は直木賞の候補作品であり、その選考に洩れて芥川賞の審査にまわされてきた結果の受賞であった。
という逸話は有名だ。

【或る「小倉日記」伝】は、推理小説(ミステリ-的・サスペンス的)ではない。

にもかかわらず、【ある「小倉日記」伝】は主人公の田上耕作の死と入れ違いに、それまで行方不明だった、森鴎外の「小倉日記」が発見される。
田上耕作の血の滲むような努力が水の泡になってしまうスト-リ-だ。

松本清張の、【或る「小倉日記」伝】は推理小説とは違い文学的叙情的な作品だと思った。

田上耕作は、熊本に生まれる。
五才の時に父親の仕事の都合で小倉に住んだ。

田上耕作は身体が不自由であった。
生まれたときから口をあんぐりと開けて閉まることができない。
いつも、よだれを垂らしていた。

そのため、上手く口を聞くことができなかった。
左足も麻痺していて、思うように歩くことができなかった。

いろいろな医者には掛かったが、治すことが全くできなかった。

田上耕作の母親は、田上ふじといって大変美しくきれいな人だった。
ふじは一人息子の田上耕作を深く愛した。

耕作のためなら、全てを投げだすほど愛した。

田上耕作は身体は不自由ではあったが、頭脳はずば抜けて良かった。

学校を、卒業すると収入を得る仕事には就けなかったが、友人から森鴎外のことを知り、
《森鴎外は〔小倉日記〕をつけていたが森鴎外の死後、紛失してしまった。森鴎外の小倉時代を知る重要な資料なので、家族や専門家が必死で探してもでてはこなかった。》
この話を聞き田上耕作は森鴎外の研究を生涯掛けてやることに決めた。

田上耕作は関連する場所や、人物などを調べて資料としてまとめていこうと考えていた。

一番喜んだのは、母親のふじだった。
森鴎外の研究を一人息子の耕作のためならと心底応援した。

田上耕作は森鴎外の小倉時代を知った人を訪ねたり、森鴎外のゆかりのある場所などに行ったり、
随分と細かいことまで調べてだんだんと成果はでてきた。
小倉時代が明らかになるまでになった。
そこで森鴎外の権威ある人に、今までの資料を送ると
《森鴎外の研究を、大変に褒めた。》
田上耕作は、これで方向性が決まったと思った。

田上耕作は、不自由な身体のため調べにいくと、よく馬鹿にされたりからかわれた。
《そんなことを調べて何になるのだ。》
と言われたときはさすがに絶望感に襲われた。
母親ふじは、そのたびに耕作を励まし元気づけた。

地道に手がかりを、集め資料も大分集まってきた頃には、戦争にさしかかって世の中も森鴎外どころではなくなってきていた。

終戦後、食料不足で、闇米・闇魚など食べてはいたが、田上耕作は衰弱しきって寝込んでいた。

暮れになり急に体調を崩してしまった。
そして幼い頃、聞いていた
《てんびんやの鈴の音》
の幻聴を聞きながら、息を引き取った。

母親ふじは、耕作の寂しい初七日が過ぎて耕作の遺骨と耕作が書いた草稿を持って、郷里の遠い親戚熊本に帰った。

それから、昭和26年2月東京で森鴎外の《小倉日記》が発見された。

森鴎外のご子息が疎開先の中から持ち込んだ、タンスの中に入っていた。

《田上耕作がこの事実を知らないで死んだのは、不幸か幸福か分からない。》
最後のこの言葉が、辛く、切なく、私の心に響いた。

私は、胸に熱いものが込み上げてき、ていたたまれなくなってしまった。

田上耕作・美しい母親ふじが、とても哀れに思った。

ところで、この【或る「小倉日記」伝】は本当にいた人物らしい!
『田上耕作は、実在の人物らしい。実際に変わった風貌をしているらしい。森鴎外の小倉時代の欠落部分を一生の仕事としていたのは事実らしい』

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