【清兵衛と瓢箪】志賀直哉を、読んだ感想!

~大正元年(1912年)「中央公論」で〈大津順吉〉を発表し

翌二年、大正二年「読売新聞」で【清兵衛と瓢箪】を発表しました。~

~志賀直哉にとって最も充実した時になりました。~

~志賀直哉は(暗夜行路)・(城の崎にて)を記して「小説の神様」と呼ばれていました。~

~【清兵衛と瓢箪】は、文庫本で10ペ-ジにも満たず簡単に読めてしまいます。~

~簡単に読めるだけに、その中に感じる疑問、理不尽さなどが多く詰め込まれています。~

《あらすじ》

清兵衛は十二歳で未だ小学校に通っています。

清兵衛は(瓢箪)を愛し、収穫から作成まで清兵衛がします。

清兵衛は、学校から帰っても他の子供とは遊ばずに、一人よく町へ瓢箪を

見に出かけました。

町を歩いて居れば骨董屋・八百屋・荒物屋・駄菓子屋でも
又専門にそれを売る家でも、およそ瓢箪を下げた店といえば
必ずその前に立って凝っと見ていました。

ある日清兵衛が、いつも見慣れない場所に仕舞屋の格子先に
婆さんが干柿や蜜柑の店を出して、その後ろの格子に
二十ばかりの瓢箪を下げて置くのを発見しました。

「ちょっと、見せてつかぁせぇな」と寄って、中に一つ五寸ばかりで一見極く普通な形をしたので、
清兵衛には震いつきたい程にいいのがありました。

清兵衛は十銭でそれを手に入れました。
 

清兵衛は、その瓢箪を片時も離せなくなり、学校へも持って行くようになりました。

仕舞には時間中でも机の下で瓢箪を磨いていました。

その瓢箪を、受け持ちの教員に見つかり、
修身の時間だっただけに教員は一層怒り瓢箪を取り上げました。
 

さらに、その教員は清兵衛の家に訪れて
父親は仕事で留守なので母親に「こういう事は全体家庭で取り締まって頂くべきで・・・・・・・・」

こんな事を言って、清兵衛の母親に食ってかかりました。

母親は只々恐縮していました。

間もなく清兵衛の父親は、仕事場から帰って来て母親から、その話を聞くと、
側にいた清兵衛を捕まえて散々なぐりつけました。

「将来とても見込みのないやつだ」と言いました。
そして、大切にしている清兵衛の瓢箪を一つ一つ金づちで割ってしまいました。

その後、教員が取り上げた清兵衛の瓢箪を
けがれた物でもあるかのように、教員は小使いにやってしまいました。

小使は金に困り、近所の骨董屋に五円から始まった交渉で
50円で骨董屋が買い取りました。

小使いは四ヶ月分の月給を、只で貰うったような幸運を心ひそかに喜びました。
 

彼はこのことは教員には勿論、清兵衛にも全く知らん顔をしていました。

骨董屋がその瓢箪を、地方の豪家に六百円で売りつけた事までは想像も出来ませんでした。

清兵衛は今、絵を描く事に熱中しています。

もう、教員を怨む心も、十あまりの瓢箪を金づちでわった父も、怨む心もなくなっていました。

清兵衛の父はもう、そろそろ清兵衛の絵を描くことにも叱言をいい出してきました。

《私の感想》

~父親も、教員も周りの大人たちも、
清兵衛(瓢箪)の才能ある趣味を理解してくれる人はいませんでした。

才能は時として、見逃されてしまうものなのか?とも思ってしまいました。
 

今、清兵衛は絵を描く事に熱中しています。

今度は、父親も取り上げる事は出来ないと思います。

今までは、集めると言うか、(物)でしたが今度は自分で描くという事です。

親の手から清兵衛は離れていくと思います。~

~志賀直哉は自分の境遇、清兵衛を(自分)にたとえているのかも?とも思いました。~

志賀直哉(1883~1971)

コメント