【春琴抄】谷崎潤一郎を、読んだ感想!

~【春琴抄】は、昭和八年に「中央公論」で発表された小説です。

谷崎潤一郎四十八歳の時の作品です。

【春琴抄】は」、《徹底的な献身》が全面に出ている作品です。~

~谷崎潤一郎は、官能的な趣のある小説が多いですが、

純粋な愛を通り越してマゾヒズム的な愛です。

《徹底的な献身》 ここまで、出来るものかと思わずにはいられません。

《あらすじ》

春琴、本当の名は鵙屋琴(もずやこと)

大阪道修町(おおさかどしょうまち)の薬種商の生まれです。

春琴は、頭脳明晰、容姿端麗として誉れ高かったのですが、

九歳に時に失明してしまいます。

失明してからというもの、春琴は無口になってしまいましたが、

琴や三味線だけは熱心に受けていました。

その才能は、師匠の春松検校(しゅんしょうけんぎょう)も、一目置くほどだったといいます。

その春琴の眼となり、稽古への道を共に歩いたのが佐助でした。

春琴より四歳年上の佐助は、春琴の失明後に出会い、

好意を抱いていたのです。

一方の春琴は、佐助にはわがまま放題、

思い通りにいかぬことがあればすぐに怒る始末。

それでも佐助は、少しでも春琴に近づきたいとの思いから、

ひそかに三味線を始めるようになるのです。

もちろん独学で、頼りになるのは稽古のお供をするときに聞いた

春琴の三味線の音色、

毎日夜遅く、屋根裏の押し入れに隠れて練習にはげんでいました。

しかし、半年ほどした後、

春琴の母に三味線の練習していることを知られてしまいます。

意外にも春琴が佐助の腕前を聴いてみたいと、助けの手を差し伸べたのです。

春琴と佐助が師弟となって、稽古をすることに、

春琴の両親は孤独な娘の気晴らしになると、よろこび、

また奉公人たちは、わがままな娘の気まぐれから解放されると大いに歓迎します。

いざ稽古が始まると、春琴は異常なまでに厳しく、

ときには佐助を撥(ばち)で打ったり、その指導は夜中になることもあったといいます。

最初は娘の気晴らしをよろこんでいた両親も、

ぶたれる佐助の泣き声のひどさに、やりすぎではないかと春琴を叱りつけました。

ところが、ひかられたその怒りを春琴はまた佐助にぶつけます。

そして芸に精進するならば痛みをこらえること、

それが出来なければ自分は教えることはしないと言います。

これ以後、佐助はどんなにひどいことをされようとも、

決して泣くことはなかったといいます。

しかし両親は、佐助と娘が師弟関係を結ぶようになってから、

娘が粗暴になり、意地悪くなってきたと感じた。

両親は佐助を春琴と同じ、師匠(春松検校)の門下生とし、

生活をさせることにしたのでした。

つまり、娘に指導が出来ぬようにさせたのです。

また、両親の胸の内には、佐助を不憫な娘の婿にしたいという考えもありました。

その一年後、事件がおこります。

春琴が妊娠したのです。

生まれた子は佐助に瓜二つ、

しかし、春琴は断じて父親が佐助だとは認めず、

佐助もその強い口調に従うように否定し続けました。

生まれた子はどこかへもらわれて行ったといいます。

春琴がニ十歳のとき、春松検校が亡くなり、

それを機に春琴は、親の家を出て居を構え、師匠として独立します。

佐助もそれについていき、また元の師弟関係が戻りました。

わがまま放題の春琴は、生活も非常に派手で、

美しいものを好み、うぐいすやひばりを飼い、多くの奉公人を雇っていました。

もちろん、ひと月の生活費は、春琴の師匠としての稼ぎでは足りませんから、

親が仕送りをしていたのです。

しかし、言われるがまま援助していた父親が他界し、

兄が家督をついでからは、そうはいきません。

仕方なく、春琴は金持ちの息子など、も弟子にして教えるようになっていきました。

そういった弟子の中にはもちろん、春琴の容姿を目当てにする人も

少なくなかったといいます。

あるとき、春菊はそうした弟子の一人、利太郎(りたろう)と、

いさかいを起こし、不慮のことから彼に傷を負わせてしまいました。

その一件があってから、一ヶ月あまり過ぎたある夜、

寝床にいた春琴は何者かに襲われ、顔に火傷を負ってしまいます。

春琴に危害を加えたのは利太郎なのか、

または他の者か、それは分からなかったそうです。

春琴が、傷を負った数十日後、

佐助が偶然は白内障をわずらい盲目となってしまったというのです。

しかし、このことについて、佐助本人が春琴の死後十年を経た後に、

側近の者に語りました。

春琴の火傷は、実際のところは、そんなにひどい傷ではなかったのですが、

春琴は自分の顔が醜くなったと思い悩み、

ほとんど人前にでなくなってしまったということです。

幾日も伏せていた春琴があるとき佐助に、

「お前だけは、いずれこの顔を見られることになるだろう」

いつになく弱気になり涙しました。

そこで、佐助は、

「もう一生、お師匠様のお顔を見ることはないでしょう」

と言い、その数日後自らの眼を針で刺したとというのです。

そして、それがもとで白内障になり盲目となったのです。

盲目となった佐助は、師弟の壁に隔てられていた心と、

心が初めて一つになったと感じたようです。

佐助が自ら盲目になったことを知った春琴は、

「眼を刺したときに痛くはなかったのか」と

佐助に尋ねました。

佐助は

「そんな痛みは、お師匠さまが受けた火傷の痛みに比べれば、

なんということはない。」

望みが叶い、

盲目となった佐助に見えるのは、これまでと変わらぬ美しい師匠の姿のみ。

今までと同じようにそばに置いてください、と春琴に申し出た佐助でした。

その後も、佐助はこれまでと同様に春琴の身の回りの世話を続けました。

春琴が人前にでなくなったので、佐助が弟子たちに指導を行い、生計を立てていました。

それでも佐助は、

弟子に自分のことを「師匠」ではなく「佐助さん」と呼ばせ、春琴を立てていたのです。

二人は結婚はしませんでした。

佐助は、対等の関係になることを避け、主従の礼儀を守ったのでした。

春琴はようやく、献身的な佐助の気持ちを素直に

受け取ることができるようになり、随分と心が丸く優しくなりました。

それからは、心の優しさも音に現れ、

ますます芸に艶(つや)やかさが生まれました。

また作曲の才能も発揮していったということです。

佐助は春琴から、《琴台》という名前を与えられ、

春琴の弟子の世話を引き受けました。

春琴58歳で亡くなり、佐助は83歳で亡くなりました。

《私の感想》

~佐助が春琴を、愛する力、

これは、愛が達する(美の極致)で、最上の状態に達したと思います。

春琴と佐助は、師弟であり夫婦であっても、

子供は育てることはなく(どこかへもらわれていく)

春琴と佐助二人のだけの世界。

愛の極致とは到達したものしか分からないのかも知れないと思いました。

余談ですが、

「山口百恵」が好きで好きで「百恵・命」でした。

春琴の役に「山口百恵」で、映画館に何回も足を運びました。~

谷崎潤一郎(1886~1965)

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