
~「おい、地獄さ行くんだで!」この言葉で始まる【蟹工船】
舞台は、函館、カニの缶詰を作るために船にのせられた貧しい労働者たち。
(旋風屋)現代の(労働者派遣業者)から、貧しい労働者たちは【蟹工船】(博多丸)に送りこまれます。~
~貧しい農民が、暴力で従わせられ命を軽視さられ過酷な労働に
ついに、皆たちが立ち上がる。~

1929年発表のプロレタリア文学の代表作である。
(プロレタリア文学とは、労働者のことで、社会主義や共産主義をテ-マ-にした文学です。)
《あらすじ》
「おい、地獄さ行くんだで!」

【蟹工船】博多丸は、遠くオホ-ック海のカムチャツカ半島の漁場に向け出航しました。
北海道、青森、秋田など貧しい農村の出で、又、悲惨な夕張炭鉱から逃げたものなど
子供、学生、ひと航海でまとまったお金に、惹かれて乗り込んで来た者たちでありました。
漁夫たちは、(糞壺)と言われる不潔で薄暗い部屋に押し込まれました。
【蟹工船】は航船ではありません。
それゆえ、航海法の網の目を、くぐりぬけることができるのです。
また、工場でもありませんので、工場法の適用もありません。
おんぼろ船が、北の海のはて、多くの労働者を載せて好き勝手に労働させているのです。
出港から四日ほどすると、病気に悩まされるものが出てきました。
ところが、ろくな薬も支給されません。
仕事ができなかった者に、焼きをいれるようになります。

真っ赤に燃えた鉄棒を体に押し当て、やがて(山田)がついに亡くなってしまいます。
(山田)の、死に自分たちの運命を見た漁夫たちは、生き残るためには
一人ではどうにもならないことを痛感します。
そして、学生上がりの漁夫や数人のものが中心となって団結し始めます。
それを、機に反乱を起こすのです。
学生、雑夫、水夫、火夫と一団結をし始めます。
監督はついに焦り始めました。
目に見えて仕事量が減っているのです。
そして、監督は常日頃、弾を込めたピストルを持ち歩くようになります。
いくら、資本家連中が怖いとは言っても、こちらは四百人以上の仲間がいます。
九人の代表を立て船長室に直接談判に押しかけます。

殺気だった漁夫たちに囲まれながら、対面した監督はなぜか落ち着き払っていました。
「後悔しないか」と問いかえしました。
その言いぐさに漁夫たちが顔を殴りつけました。
監督は「明日の朝に色よい返事をしてやるから。」と答えました。
漁夫たちの計画は成功したように見えました。
しかし、大風が過ぎた夕方やってきたのは、
日本の日の丸を掲げた駆遂艦で、ロシアをやっける大日本帝国の船です。
漁夫たちは万歳をして迎えます。
しかし乗船した水兵たちは武装してやってきたのです。
「あっ」という間に九人の代表は駆遂艦に護送されてしまいました。
他愛もないくらい簡単に、ストライキは鎮圧されたのです。
帝国は、国民の味方ではなかったのです。
資本家の味方だったのです。

それから三日が過ぎ、水兵たちが去ってしまうと漁夫たちは再び団結し始めます。
「俺たちには、俺たちしか味方が無えんだ!」
最初のストライキを失敗して以来、監督の漁夫たちへの仕打ちは
度を超して酷いものになり、本当に生きるか死ぬかというところまで追い込まれてしまいました。
彼らは全員で力を合わせることを知ったのです。
そして、彼らは、立ち上がった。—もう一度!
《私の思い!感想!》
~地獄さ行くんだで!」
この、最初の書いてある言葉に度肝を抜いてしまいました。
事実を、ベ-スにしている物語とは言え胸が詰まり、余りに酷すぎると思いました。
国民を守ってくれるはずの軍隊は、実は金持ちたちの味方だと分かり、
目覚めた漁夫たちは、ふたたび立ち上がります。
人が人として扱われなければならないのに、余りにも酷すぎると思います。
最後まで、息を詰めてしまうほど力が入ってしまった【蟹工船】です。
団結の力を改めて強く感じました。~

作家紹介
小林多喜二(1903~1933)
明治36年、貧しい農家の息子として、現在の秋田県大館市に生まれる。
四歳の時、親戚を頼って一家で小樽に移住。
叔父の援助を受けながら小樽商業学校、小樽高等商業学校と進学し、
卒業後は北海道拓殖銀行小樽支店に就職する。
高等商業学校時代から、労働運動を意識するようになった多喜二は、
卒業直後の大正13年(1924年)4月に、同人紙(クラルテ)を発行するなど急速に社会主義に傾倒。
銀行に勤務しながら、多くの労働争議の応援に出向き同時に小説を書き始める。
多喜二の小説の最初の大きな成果は、昭和3年(1928)に発表された『1928年3月15日』
政府による労働運動家への大弾圧を題材としたこの小説は大きな話題を集め、

翌年、発表した【蟹工船】では一般読者からも厚い支持を受け、一躍プロレタリア文学の旗でとなった。
しかし、同時に警察からも要注意人物としてマ-クされ銀行を解雇されると、昭和5年春に上京。
日本プロレタリア作家同盟書記長として活動しながら、小説や論文を発表する。
さらに、昭和6年には当時非合法化されていた日本共産党に入党。
政府による弾圧で地下活動を余儀なくされた多喜二は、昭8年(1933年)2月20日スパイ密国で逮捕され、
特高による厳しい拷問の末に獄中死した。
遺作は昭和7年に書かれ、死の直後に発表された『党生活者』。

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