
《高村光太郎 と 智恵子》
明治十六年、父光蔵(高村光雲として知られる著名な彫刻家)と
母わかの、長男として、現在の東京都台東区に生まれました。
明治三十年(1897年)、東京美術学校予科に入学する。
翌年、本科、彫刻家進学する。
明治三十九年、彫刻を学ぶため、ニュヨ-クに渡る。
翌年ロンドンへ、次の年はパリへと移る。
帰国後は実家の離れを改築してアトリエとする。
明治四十三年、ニュヨ-クで出会った彫刻家、
萩原守衛の死に、遭い大きな衝撃を受ける。
明治四十五年、岸田劉生らと「ヒュウザン会」を決成。
駒込にアトリエ完成。

後に、詩「あどけない話」の中で、
「智恵子は、東京に空が無いという」
見上げたのはここの窓から。
大正三年(1914年)詩集『道程』を自費出版。
大正三年(1914年)長沼智恵子と結婚。
智恵子は、福島の酒屋の実家の生まれで裕福な家庭で育ちました。
美術大学で油絵に引かれ、洋画家を志します。

高村幸太郎に出会い二人で共通のアトリエを持ち、
二人で製作活動をしていました。
しかし、もともと智恵子は身体が弱く、
東京に移り済んでからは、年に3~4か月は地元に帰るほど
東京の空気はあわなかったようです。

智恵子の半生でも
「・・・彼女にとっては肉体的に既に東京の空気が不適当の地であった。
東京の空気は、彼女には常に無味乾燥でざらざらしていた。
・・・私と同棲してからも、一年に三・四ヵ月、郷里の家に帰っていた。
田舎の空気を吸って来なければ、身体がもたないのであった。
彼女はよく、東京には空が無いといって嘆いていた」とあります。
父が亡くなり、実家である長浜家が、昭和四年(1929年)に倒産したころから
智恵子は次第に精神に異常をきたすようになります。
そして、服毒自殺を計ります。
自殺は未遂に終わりましたが、総合失調病とされ入院してしまいます。
片時も目を離せない病妻を抱えた高村光太郎は、
智恵子を九十九里浜に、転地療養させることにします。
智恵子の療養生活は、七ヵ月に及びました。

その後、
高村幸太郎の献身的な介護の末、五十三歳で生涯をおえました。
昭和十三年、智恵子を失う。
昭和十六年【智恵子抄】を刊行。
第二次大戦に際しては、戦争協力詩を数多く書く。
昭和二十五年、詩集『典型』刊行。
昭和三十一年、結核のためたびたび吐血。
七十三歳で没す。
【あどけない話】
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空がみたいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切ってもきれない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。

阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
《私の感想》
【智恵子抄】という詩集に収められている
【あどけない話】は、心に響きます。
分かりやすく、すなおな心情が伝わってきます。
高村光太郎と、智恵子との二人の関係が
智恵子を、愛おしいまでに愛し、
高村光太郎にとって、智恵子は精神の支えであり、
純粋であるがゆえに、智恵子を失った時の喪失感。
なにもかもが、止まってしまったような絶望感、
そして、深い悲しみ、
愛の重みを感じてしまいます。

高村光太郎(1883~1956)
(彫刻家)


コメント