土井晩翠(中学唱歌より)【荒城の月】感想!

【荒城の月】は、

私の思い出の曲です。

小学校六年生の時、学芸会で縦笛を演奏しました。

先生も気合を入れて、私たち生徒も毎日猛特訓の日々でした。

当日、私たち生徒は皆、

「緊張でドキドキしちゃう」と話してました。

いざ、本番では素晴らしい出来栄えでした。

皆で喜び合ったのを、今では懐かしい思い出です。

私は【荒城の月】を、滝廉太郎と思ってました。

(満24歳で肺結核を発病して自宅で亡くなっています。)

【荒城の月】の歌詞は、

土井晩翠の作詞

原曲は、

瀧廉太郎(滝廉太郎)の作曲

編曲は山田耕作です。

日本の歌曲・七五調の歌詞と、西洋音楽のメロディが融合した名曲です。

明治34年(1901年)に、中学校唱歌の懸賞の応募作品として作曲されました。

原曲は無伴奏の歌曲でありました。

歌詞は、東京音楽学校が、土井晩翠に応募テキストとして依頼したものです。

原題は「荒城月」

《歌詞》

1

春高桜(こうろう)の花の宴(えん)

巡る盃(さかづき)影さして

千代の松が枝(え)分け出でし

昔の光 今いずこ

2

秋陣営の霜の色

鳴きゆく雁(かり)の数見せて

植うる剣(つるぎ)に照り沿いし

昔の光今いずこ

3

今荒城の夜半(よわ)の月

変わらぬ光誰(た)がためぞ

垣に残るはただ葛(かずら)

松に歌う(うとう)はただ嵐

4

天上影は変わらねど

栄枯(えいご)は移る世の姿

映さんとてか今も尚

ああ荒城の夜半の月

〈歌詞の意味・現代語訳〉

1

春には城内で花見の宴が開かれ

回し飲む盃(さかづき)には月影が映える

千年の松の枝から こぼれ落ちた

昔の栄華は今どこに

2

秋の古戦場 陣跡の霜に静寂が満ちる

空を行く雁の群れの鳴き声

敗れた兵の地面に刺さった刀に映る

彼らの命の輝きは今どこに

3

今や荒れ果てた城跡を

夜半の月が照らす

昔とかわらぬその光

主も無く 誰のために

石垣に残るは葛のツタのみ

松の枝を鳴らす風の音のみ

4

天上の月が照らす影は今も変わらず

されど世の中の栄枯盛衰を

今もなお映そうとしているのか

ああ荒城を照らす夜半の月よ

《私の感想》

荒城の月は、仙台城がモデルとされたのではないかと

言われます。

荒城の月の真意は、仏教の心「無常」にあったといいます。

この世の中は移り変わるもの、

10年前、3年前と、今とでは違っています。

いつまでも、変わらないものはないと言うことだと思います。

土井晩翠(どいばんすい)

(1871~1952)

明治4年、現在の宮城県仙台市青葉区に、

父(林七)と母(あい)の長男として生まれました。

本名は(林吉)

実家は仙台にあり裕福な家でした。

この家は、大林寺という寺の檀家総代を務めていました。

幼いうちは、あまり信仰心は無かったようです。

しかし年を重ねるにつけ、仏教を深く信仰し、

理解も深めていったようです。

荒城の月の歌詞の中には、この仏教の根本的な教え、

「無常」という考え方が織り込まれていると思います。

土井家の菩提寺は、大林寺です。

ここには、土井晩翠の墓が今でも、残っています。

土井晩翠は、日本各地の学校の校歌を作詞しています。

子供のころ通っていた、母校の木町通小学校の校歌も作詞しています。

昭和25年、詩人としては初めての文化勲章受章者となりました。

文化功労者にも選ばれ、同時に仙台市名誉市民にもなっています。

荒城の月の作詞作曲は、土井晩翠と瀧廉太郎の

共同作業で完成したものでなく、

詩を考え、その詩に曲を付けたと言う経緯であったため

彼ら二人は、直接の面識はありません。

明治35年、帰国途中だった瀧廉太郎は、

ロンドン郊外のテムズ川、河口港に寄港したとき、

そこに居た土井晩翠と、日本郵船「若狭丸」上で初めて会っています。

この面会は、最初で最後の対面となっています。

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