
デフォ-が1719年に発表した小説。
原題は、『ロビンソン・クル-ソ-の生涯と冒険』
まるでデフォ-がその境遇にあったかのように、
細部の描写が臨場感をもって描かれているが、
この作品は実在の人物、《アレクサンダ-・セルカ-ク》 (1676年~1721年)がモデルとなっている。
《セルカ-ク》はスコットランド生まれの英国船員。
チリ沖に浮かぶ無人島で仲間といさかいを起こし、置き去りにされ4年後に救助された。
彼がどのように無人島で生き延びてきたかは、
1718年に発表された『世界巡航記』の中に記録されており、
そこでのサバイバル生活が《ロビンソン》と似ているため、《デイフォ-》はこれを読んでいたと思われる。
しかし、この【ロビンソン・クル-ソ-】が後世にまで名作といわれるゆえんは、
この小説が無人島での苦難に満ちた
生活と、それに続く脱出劇を描くだけに終わらず、無人島に一人残された人間の内面の変化を緻密に描いたことにある。
主人公《ロビンソン》は無人島に漂着してしまったことで、初めて自分を見つめ直し、神の摂理に気付くのである。

~今、読んでみて改めて思うことは、【ロビンソン・クル-ソ-】は冒険というより生きるための
知恵と工夫と忍耐と我慢との戦いだと感じた。~
[あらすじ・私の思い〕
《クル-ソ-》は、放浪癖と、どうしても船乗りになたい思いで家を飛び出し、
その途中で船が嵐に会って難破して、
一人で、アメリカ海岸、オル-ノコの大河の河口近くの無人島に
28年間の孤独の生活を送った。
《クル-ソ-》は、大きな柱で十字架を作り、
その柱に『1659年9月30日、我ここに上陸す』と刻み付け
最初に上陸した地点に立てた。
《クル-ソ-》は、『勤勉と努力と工夫と辛抱で』欲しい物があればどんなものでも作った。

生きるためには、例えば、板一枚が欲しければ、
木を一本切り倒すことから始め、斧で薄く削り、
今度は、それを鉈で表面をたいらにするなど、椅子もテーブルも住居や家具も作った。
《クル-ソ-》は孤独の生涯であっても、幸福になれる可能性があると信念を抱いていた。
一方日々の暮らしは、
忍耐と勤勉をもって多くの仕事をするうちに、目に見えて成果が現れ作物は実り
粘土から器や鍋を作り収穫した大麦からパンを作ることにも成功した。
そして、この無人島は、
野蛮たちが捕虜を殺して食べる祝宴が行われる場になっていることを
《クル-ソ-》は発見して戦々恐々とする日々が続いた。

そんなある日、捕虜が逃げ出して《クル-ソ-》の目の前にやってきたので、
追ってを討って捕虜を助けた。
《クル-ソ-》は捕虜を助けたのが、金曜日だったので《フライデ-》と名付け、
ともに生活するようになった。
《フライデ-》は命を助けられたので、《クル-ソ-》には死ぬまで尽くすと誓った。
《フライデ-》に、言葉(英語)を教え、《クル-ソ-》のことを(旦那様)と教えた。
いろいろなことが様々あり、後にイギリスの船との出会いがあり島を後にした。
『1686年12月19日』のことであった。
《クル-ソ-》 と 《フライデ-》が、
長い航海を経てイギリスに着いたのは、『1687年6月11日』のことだった。
ブラジルに残してきた自分の農園の財産で、何不自由なく暮らせた。
それから、結婚もし子供にも恵まれた。
しかし、数年後、妻が死ぬとまたもや航海に出ることになった.
【ロビンソン・クル-ソ-】続編を期待させる終わり方をしている。
【ロビンソン・クル-ソ-】は全三部作でこの物語は第一作目です。


~子どもの頃読んだときは、捨てた麦粒が発芽し育って、
この麦が4年後にはパンを作って食べられ
(何をするにも一から作り上げていかなければならない!凄いことだ!)
ということが、新鮮に心に残っている。~
~《クル-ソ-》は、どんな場面でもあきらめることをせず、
真正面からぶつかっていく姿勢には驚かされる。
27歳の若い世代から、およそ27年間くらい孤独の島で暮らした《クル-ソ-》は、
54歳くらいまで、誰もいない島での過酷との戦いだった。
ただ、海がめを食べた後に、体調を崩して寝込んだこと以外は何もおきていない。
体力と精神力の強さと、『聖書』 が 《クル-ソ-》に、試練に打ち勝つ強さを与えたと思う。~
~私は、この物語【ロビンソン・クル-ソ-】は、
無人島に漂着したため原始的な生活しか出来ない。
そして生きることは、いかに過酷で凄まじいものかと思った。
孤島で25年目に《フライデ-》の出会いは、
どんなに嬉しく25年目で人の声と話せる相手がいることは、
たとえようのない喜びであると同時に、これからの《クル-ソ-》の生きる励みにもなった。~
1660年?~1731年
イギリス・ロンドンの獣脂ろうそく製造業者の子として生まれる。
彼が5歳の頃、ロンドンは英国史上空前絶後のペストの流行に見舞われ、
当時のロンドン人口の七分の一弱がこの疫病により死亡。
この幼少時の経験は後に執筆された「ペスト年代記」1722年の壮絶な筆致に現れる。
父が非国教徒の熱心な信者であったため、14歳より非国教徒にかようが
卒業後、デフォ-は父の期待に反し聖職者にならず商人となって自立をめざす。
商人としては、浮き沈みは激しかったが1684年結婚。
《デフォ-》は、政治や宗教の問題に強い関心を示したジャ-ナリストでもあった。
1688年に、宗教寛容法を発して
非国教徒にも礼拝の自由を許したウィリアム三世が王位に就くと、
《デフォ-》は彼の支持者となり、外国(オランダ)生まれのウィリアム三世を弁護する長編風刺詩「生枠のイギリス人」1701年を発表。
この作品でデフォ-は初めて世の注目を集め、王からも信任を得た。
60歳近くなった《デフォ-》は、1719年代表作となる【ロビンソン・クル-ソ-】を発表する。
せきを、切ったようにその続編、続々編を執筆。
多産かつ多才な文筆家であり、経済ジヤ-ナリズムの創始者でもあった《デフォ-》は1730年夏に突然失跡。
翌1731年、ロンドンの下宿で孤独に生涯を終えた。
コメント