【ブライトンへ行く途中で】
奇妙(きみょう)なお話です。
旅をしている途中で出てくる男の子、
一体何者なんだろう。
最後まで分からない。
《あらすじ》
太陽がゆっくり、白くかたまった山の向こうから顏を出し、
白銀の世界に夜明けという、
ささやかな神秘の儀式がきらめいた。
夜の間に雪は固くこおり、
小鳥たちが必死に生き延びようと、
あちこち飛びはねても銀色の舗装(ほそう)の上に
足跡(あしあと)が残ることはない。
生垣(いけがき)のかげにできた、
洞穴(はらあな)のような部分だけが、純白のシーツに点々としみをつけている。
その下には色彩(しきさい)豊かな大地が隠れている。
頭上の空はオレンジ色から、濃(こ)い青へ、
濃い青から、青ともいえない、薄い青へと色を変えるにつれて、
どこまでも広がる空間というよりは、
薄い紙の膜(まく)のようにみえてくる。
平原では、冷たい風が音もなく吹き、
木々から細かい雪を舞いあげているが、
雪のふり積もった生垣はほとんど動かない。
太陽はひとたび、地平線の上に姿を現すと、
のぼる速度を上げたようにみえた。
そして熱を放ち、熱は冷たい風とまじりあう。
寒さがゆるんでくるときの不思議な感覚、
男の夢のじゃまをしたのかもしれない。
男は一瞬、体をおおっている雪と格闘(かくとう)した。
まるで毛布やシーツがからまって、苦しくなって
目を覚ましたかのようだった。
男は目を大きく開いてあたりをみまわした。
「驚いた!てっきりベッドで寝ていると思っていた」
男は誰にともなく言うと、何もない風景をながめた。
「ずっとこんなところで寝ていたのか」
男は大きくのびをすると、ゆっくり立ち上がり、
全身の雪をふりはらった。
そして吹きつけてくる風に身ぶるいした。
雪のベッドは温かかったのだ。
「しかし、そのわりにはどこも悪くない」
男は考えた。
「運がよかった。雪が降ったというのに。
あぶないところで目が覚めたな。
いや、運がわるかったかもしれない。
どこにいってもろくな仕事はないんだし」
見上げると、青空を背景に山々が輝いている。
まるで絵葉書のアルプスのようだ。
「あと五、六十キロはあるな」
男はぼそっといった。
「昨日、さんざん歩いたののに。へとへとになるまで歩いたっていうのに、
ブライトンまでだってまだ三十キロはある。
雪もブライトン、も何もかも、うんざりだ!」
太陽は高く高くのぼっていく。
男は山並(やまなみ)に背を向け、道を踏(ふ)みしめるように歩いていった。
「喜んでいいのか悲しんでいいのか、
眠ってしまったことは、喜んでいいのか、悲しんでいいのか」
男は重い足音のリズムに合わせて
自分に問いかけているだけで、真剣に答えを考えているようでもなかった。
ただ歩いているだけで十分らしい。
石の道標(みちしるべ)を三つ通りすぎたあたりで、男の子に出会った。
その子はかがむようにして、タバコに火をつけていた。
コ-トも着ていない。
とても雪のなかを歩く服装ではない。
「おじさん、この道をいくの?」
男の子がかすれた声できいてきた。
「そのつもりだ」
男が答えた。
「そうなんだ!じゃ、途中までちょっと一緒に行ってもいい?
だけどあまり早く歩いちゃいゃだよ。
いまどきは、一人で歩くのはさびしくて」
男がうなずくと、男の子は足ひきずりながらをついてきた。
「ぼく、十八なんだ」
男はふと思いついたようにいった。
「もっと小さいと思ったでしょ?」
「きかれたら、十五といったと思う」
「それも、はずれ。八月で十八になったんだ。
この道をもう六年も行き来きしててさ。
小さい頃から、五回、家を飛び出して、そのたびに警察の人に連れもどされた。
だけど、警察の人はみんなやさしかった。
だけど今はもう、飛び出す家もなくなっちゃった。」
「それは、わたしも同じだ」
男は落ち着いた声で答えた。
「うん、わかる」
男の子が息をきらせていった。
「おじさん、ジェントルマンだったのに落ちぶれたんだね。
だから僕よりつらいんだと思う」
男はやせた男の子が足をひきずりながらついてくるのをみて、足をゆるめた。
「ただ、帰る家がなくなってからの年数はきみのほうが多いらしいな」
男がいった。
「うん、歩き方でわかるよ。まだ疲(つか)れてないみたいだし。
もっしかして、これから行くところに何かいいことがありそう?」
男はちょっと考えてから「どうかな」とぶっきらぼうに答えた。
「ただ、いつも、いいことがありそうだと思うことにしている」
「そのうちわかるって」
男が言った。
「ロンドンのほうが暖かいけど、食べ物は少ない。
あそこは貧しいところだよ」
「しかしチャンスは多い。話をわかってくれる相手にも出会えるし…」
「田舎(いなか)のほうがいいって」
男の子が口をはさんだ。
「昨日の晩、こっそり納屋(なや)にもぐりこんで、牛と一諸に寝たんだ。
すると今朝、そこのおじさんがぼくを納屋から引っぱり出して、
こんなに小さいのにかわいそうにって、お茶とパンをくれた。
もちろん、ぼくはそんなに小さくないんだけどさ。ロンドンじゃ、テムズ川の
河岸(かし)で夜にスープを無料でふるまってくれるところがあるくらいで、
あとは警官に追い回されるのがおちだよ」
「昨日の夜、この道を歩いて転んで、そのまま寝てしまったらしいんだ。
それで死ななかったなんて、嘘(うそ)みたいだな」
男がさっとそちらをみた。
「なんで死な、なかったって、わかるの?」
「どういうことだ?」
しばらくして男がきいた。
「だってさ」
男の子がかすれ声でいった。
「ぼくみたいになっちゃうと、逃げようと思っても、逃げられないんだよ。
いつもお腹(なか)をすかせて、喉(のど)はからからで、
疲れきって、ずっと歩いてなくちゃいけない。
そのくせ、だれかが素敵な家に招いて、仕事をくれれば、
胃の調子が悪くなる。ぼく、健康そうにみえる?
年のわりに小さいよね。だけど、もう六年もひどい目にあってるんだ。
ぼくが死んでないって思える?
マーゲイトで溺(おぼ)れたことも、あるし
ジプシ-にでっかい釘(くぎ)で殺されたこともあるんだ。
そいつったら、ぼくの頭をおもいきり大釘でなぐったんだ。
それでも、ぼくは今ここを歩いている。ロンドンに行ってはもどってくる。
だって、どうしょうもないんだ。
死んでるんだから!ぼくらは逃げたくっても逃げられないんだ。」
男の子が激しく咳(せき)こんだので、
男は、咳がおさまるまで待ってやった。
「このコート貸してやろう」
男が声をかけた。
「随分ひどい咳をしてるじゃないか」
「ほっといてよ」
男の子が乱暴ににいって、タバコを吸った。
「大丈夫(だいじょうぶ)だって。今、この道のことを話してたんだ。
おじさんは、まだ先までいったことはないと思うけど、すぐにわかるよ。
ぼくたちはみんな死んでいるんだから。
この道を歩いてる人間はみんな、そうなんだ。
みんな疲れきっているけど、ここから逃げられない。
夏にはいい匂いがする。
土埃(つちぼこり)や干すし草や風が、
暑い日には顏に吹きつけてくるからね。
それに晴れた朝、露(つゆ)にぬれた草の上で目を覚ますのは
気持ちがいいよ。
ああ、わからない。わからないよう…」
男の子がふいに前によろめいたので、男が抱きとめた。
「ぼく、病気なんだ」
男の子が消えそうな声でいった。
「病気なんだ」
男は顏を上げて、道の先に目をやった。
しかし家もみえないし、助けになりそうなものもみえない。
ところが、道のまん中でどうしょうかと思いながら
男の子を抱(かか)えているとき、
突然、向こうのはうに自動車がちらっとみえた。
自動車は雪のなかをすべるように走ってきた。
「どうしました?」
車がすぐ横で止まって、運転していた人が声をかけてきた。
「わたしは医者です」
その人は鋭(するど)い目で男の子をみて、
その苦しそうな息づかいをきいた。
「肺炎ですね。工場の診療所まで運びましょう。
よかったら、あなたも一諸にきませんか?」
男は工場ときいて、首を振った。
「いや、歩いていきます」
男の子は車に乗せられるとき、かすかにまばたきをした。
「ライゲットの町でまたあうよ」
男の子は小声でいった。
「待ってて」
車は白い道路を走ってみえなくなった。
朝方ずっと、男はとけた雪をはね散らかしながら歩いていった。
そして昼頃(ひるごろ)、小さな家の前でパンをもらって、納屋に入って食べた。
納屋のなかは暖かく、パンを食べ終わると男は干し草の上に転がって寝た。
目が覚めるとあたりは暗くなっていた。
男はふたたび、ぬかるんだ道をとぼとぼと歩き始めた。
ライゲットから三キロほどいったところで、やせた男の子が闇のなかからふっと現れた。
「おじさんも、この道をいくの?」
かすれた声がきいてきた。
「じゃ、途中までちょっと一諸に行ってもいい?
だけど余り速くあるいちゃいやだよ。今どきは、ひとりで歩くのはさびしくて」
「肺炎じゃなかったのか?」
男はぞっとして叫んだ。
「ぼく、今朝、クロ-リ-で死んだんだ」
男の子が答えた。
《私の感想》
【ブライトンへ行く途中で】
「ぼく、今朝、クロ-リ-で死んだんだ」男の子が答えた。
最後の一行がぞっとするほど、強烈に怖かったです。
(死んだ男の子なのに・・・)
物語の舞台のブライトン街道とは、
イギリス南部のシーサイド・リゾ-ト地。
ブライトンとロンドンを結ぶ街道のことです。
リチャ-ド・ミドルトン
(1882-1911)
イギリスの詩人・作家
生前は中々出版の機会に恵まれず、
ブリュッセルの下宿で服毒自殺(享年29歳)
短編(幽霊船)の採用通知が届いたのは、
その1週間後だったという。
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