【あまのじゃく息子】(広島県)ふるさとの昔話を読んだ感想!

親の言うことを反対ばかりする息子を主人公とした日本各地に伝わる昔話です。

《 あらすじ 》

昔昔、海老山(えびやま)の西の村に、道空(どうくう)と道西(どうさい)という漁師の夫婦が住んでおりました。

二人はとても信心深く、朝な夕なに厳島明神(いつくしまみょうじん)にお参りしてはその日に捕(と)れた海の幸を供え、「どうか、村の人たちも家族も健康でありますように、幸せでありますように」と祈っていました。

ある日、いつものように道空夫婦が漁に出ると、浅瀬に金色(こんじき)に輝いて見えるところがありました。
「なんと不思議な海の色だ」
道空夫婦は船を降り、近づきました。
「海の底に見えるのは砂金じやないですか」
道西が言うので、砂をすくってみると、たしかにそれは本物の砂金でした。

「神さまからの授かりものじゃ、ありがたい、ありがたい」
それから道空夫婦はその砂金で村のために道を直したり、堰(せき)を作って田畑をうるおしたりしました。

おかげで村の暮らしは豊かになり、二人は村人たちから「道空さま、道西さま」と呼ばれるようになりました。
ところで、道空夫婦には、たいそうかわいがっている一人息子がいました。
名前は道裕(どうゆう)といいましたが、道裕は村でも評判の変わり者でした。
父親の道空が、
「道裕や、今日の海は静かだなぁ。船を出して漁でもしようか」と言うと、
「おらは山へ行って、鳥を撃ってくる」
と、さっさと弓矢を持って山に向かってしまう。

「道裕や、今日の海は時化(しけ)ているなぁ。こんな日は山に行って鳥でも撃とうか」
と道空が言うと、
「おらは、海で貝を取ってくる」
と、さっさと海に行ってしまう。
こうして道裕は、いつでも親の言うことと反対のことをするでした。

こんな道裕を村人たちは「あまのじゃく」と呼んでおりました。
ある日、道空が重い病(やまい)にかかり、ふせってしまいました。
道空は病の床(とこ)で考えました。
(わしも、もう長くはない。わしが死んだら、いつでも海をのぞめるように、山のいただきに葬(ほうむ)って欲しいのじゃが。はて、息子になんと言ったものか)
それから道裕を枕元(まくらもの)に呼ぶと、
「道裕や、わしが死んだら、あの海に浮かぶ津久根島(つくねじま)の海岸に墓を建ててくれ。これがわしの最後の頼(たの)みじゃ、頼んだぞ」
と言い残して息絶えました。

さすがの道裕も、
(おらはこれまで、ずっと親にさからって親不幸ばかりしてきた。けれどせめて、おっとうの遺言(ゆいごん)だけは聞いてあげよう)
と反省しました。
そして津久根島に渡ると、その海辺に墓を建て道空を葬りました。

ところが、しばらくして大きな嵐(あらし)が来ました。
海辺にあった道空の墓石は雨風に打たれて、たちまち海の中に転げ落ちてしまいました。
そしてその日を境に、津久根島の近くでは、さっぱり魚が捕れなくなってしまいました。
村人たちは、道裕が父親の墓を海辺なんぞに建てたのが悪いと詰め寄りました。
しかし道裕は、
「おらは、おっとうの遺言どおりに墓をたてただけじゃ」
と言います。
すると一人の長老が言いました。

「道裕よ、道空さまの本当の気持ちは、逆(さか)さまだったんじゃ。お前があまのじゃくだから、わざっと逆(ぎゃく)のことを言ったのじゃよ」
道裕は長老の言葉でようやく目が覚め、海が見渡せる山の頂に墓を作ると、道空を手厚く葬りました。

それからは、魚がたくさん捕れるようになり、村も元のように豊かになりました。
津久根島では夜明けごろ、東の空で「チチー恋し、チチー恋し」と鳴きながら飛んでいる鳥を、あまのじゃくの化身と呼んでいるそうです。

《 わたしの感想 》

親の言葉にさからう者を、あまのじゃくと呼びます。
人の言うことや、することに、さからうひねくれ者をつむじ曲がりといいます。
道裕は長老の言葉で目が覚め村の人のために尽くしたと思います。
本当は、優しい子だったと思います。

コメント